このお話は前回からの続きです。
霊媒体質の母と無精者の父、という組み合わせの両親の元、感受性の強い子供時代を過ごした私。
それなりに楽しく暮らしてはいましたが、世間一般の目から見るとあまり恵まれていない家庭だったのかもしれません。
(前回のお話はこちらをお読みください)
両親の不仲と離婚、母からの無言の差別を感じていた子供時代
さて、私の父はいわゆる無精者で、寝食を忘れて能面作りやクリーンエネルギーの研究に没頭するようなところがありました。(後にADHD――発達障害らしいと言われるように)
自営業で小さな町工場を経営していたのですが、お金の管理が全くできず、少しお金が入ると自分の研究に費やしてしまうので、家計は常に火の車でした。
この父と母とはあまりソリが合わず、母はしょっちゅう家を飛び出してばかりいました。
私が学校から帰ると母の姿がなく、泣きながら母の写真を持って近所を自転車で探し回ったこともあります。母は小さかった妹だけを連れて出ていくので、私には何も知らされず孤独感を募らせるのみでした。この頃の悲しみは今でも時々思い出すことがあります。
母は自分と似た私に同族嫌悪を感じていたのかもしれませんね。子供の頃から、私と妹との間には何となく扱い方の差があるような気がしていました。
そして私が高校生の頃にとうとう離婚してしまうのですが、その時も私が部活の合宿中で不在の日でした。合宿から戻るともう既に母の姿はなく、その行き先すら私には知らされませんでした。
母の行方を知ったのは、離婚から半年以上も過ぎた頃ではなかったかと思います。
お金の管理ができない父が作った借金の果てに
一方、父が作った借金はどんどん膨らみ、やがて自己破産せざるを得ない状況まで追い込まれました。若い頃に木こりをしていた父は、山からの落石に遭って片足先を切断し、義足で生活をしていたため、働く場も限られていてとにかく八方塞がりでした。
ある日学校から帰ると、TVやピアノ、座卓など家中の家財に差し押さえの紙がペタペタ貼られていたこともあります。「これは他の人のものになります」的な文言(子供の記憶なので、実際は全然違う言葉だと思うのですが)を見てショックを受け、机やピアノを使ってはいけないの?と途方に暮れたことを覚えています。
家にはヤクザのような人から取り立ての電話がかかってくるのですが、これが子供心にとっても怖かった。
「借りたもん返さねえのは泥棒じゃねえのか、オイ!!」
「お前の家に火つけるぞ!!」
なんて子供の私ですら日々脅され、電話に出ることが怖かった。
父はもちろん出ませんでしたし、かといって当時はナンバーディスプレイも、ましてや携帯もスマホもない時代でしたから、別の要件を取り逃すわけにもいかず電話を取らざるを得なかったのです。
そして食べるものといっても納豆1パックと魚肉ソーセージ1本だけ、という生活が続きました。
昔、芸人の誰かが同じような家庭環境の中、段ボールを食べて飢えをしのいだという話を聞いたことがあるのですが、ほとんどそれに近いような状況だったと思います。
結局、母がいなくなった私たち一家は持ち家を出て借家住まいとなり、当時進学を目指していた私も高卒で働かざるを得なくなりました。
高校卒業2か月前には学費滞納で退学勧告を受けるほどの状況でしたが、父が何とか日銭を工面し、高校中退の憂き目だけはギリギリ免れました。
校内暴力、いじめ…今なら問題視されていたかもしれない行為
劣悪だったのは家庭環境だけでなく、私自身も中学校の頃は同級生から暴行を受けていました。当時は学級崩壊みたいなものも凄まじく、校内暴力が当たり前のように行われる時代だったんです。
放課後の教室やトイレに呼び出され、殴る蹴るの暴行を受ける。持ち物は全部床にばら撒かれ、踏みにじられ靴跡を付けられる。使い走りをさせられたり、万引きしたものを売りつけられそうになったり、まあ本当に酷いものでした。
今となってはそれらの苦しみも全部意味があったことが分かるのですが、当時はもちろん辛くて辛くて、学校に行くだけで精一杯でした。それでも絶対に休まなかったのは、私の中の小さな意地やプライドのようなものがそうさせていたのかもしれません。
私には、彼らの強がりが見えていました。そんな人たちに「私の尊厳を踏みにじること」までは絶対にできない、と思っていました。表面上は彼らが勝ち誇っているように見えても、私自身が砦を作って内部に入り込ませなければ、それは「不可侵領域」のままに違いないのですから。
苦しみ全てが、経験の「引き出し」となっていった
家でも学校でも落ち着けず、不遇な子供時代~10代を送った訳ですが、不思議なことにそれらがトラウマになるようなことは全くありませんでした。
心身に大きなダメージを受けると、人はその出来事をいつまでも引きずってしまいやすいのですが、私の場合は「トラウマの中にある課題を克服する」といったカルマ的テーマで起きていた訳ではなかったので、過ぎてしまえばそれほど大きな感情の揺れもなかったのです。
結局、それらを体験させられた意味がちゃんとあったことも分かりました。
辛いことも苦しいことも、結局は全部私の引き出しの多さに繋がっていくのだということ。そしてそれは、今こうして誰かのために自分を役立てる、そのための「経験」として通る必要があったのだということ……。
答えの決定打は、ある日気が付いたら「なぜか知っている」「もう知っていた」という感じで私の中に入っていました。これは霊知(クレアコグニザンス)の部類になるのだと思いますが、私が霊的真理を知る時は、大抵そんな感じです。昨日まで知らなかったことを、今日はごく自然に知っている、というような。
一応、私の師匠からも「(私の)ガイドが引き出しの多さのことを伝えてきている」と言われましたので、これは間違いないと思います(笑)
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